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Interview_07 :
UP DATE : 2024 / 03 / 18

「半農半歌手」という暮らし

Yae(半農半歌手)

INTRODUCTION

東京からアクアラインで東京湾を渡りドライブすること2時間弱。ここも千葉県なの?と思ってしまうくらいのんびりとした田舎の風景に茅葺き屋根の古民家もちらほらと見える。通りから脇道に入りクネクネと曲がる細い坂道を登っていく。しばらくすると大小さまざまな形をした棚田とその風景に目が奪われた。たぶん僕たちがこの世に生まれるずっと前からこの風景は変わっていないんだろう。ここに暮らしていた先人たちも同じ風景を眺めていたんだと想像するととても不思議な気持ちになる。そしてさらに細くなる道を進みたどり着いた「鴨川自然王国」と呼ばれているこの場所はシンガーソングライターのYaeさんのご自宅。歌手、加藤登紀子さんを母に持ち、父親の藤本敏夫さんから受け継いだこの土地に暮らすこと17年。自らを「半農半歌手」と呼ぶ彼女の暮らしを覗かせてもらいました。

Yae
Yae

Yae
(半農半歌手)

東京生まれ。故藤本敏夫・歌手加藤登紀子の次女。
2001年ポニーキャニオンからアルバムCD「new Aeon」でデビュー。

Yaeさんはご自分のことを「半農半歌手」とおっしゃっていますね。半分農家で半分歌手ということでしょうか?

Yae:そうです。自称なんですけれど。今では差別用語になっているのであまり大きな声では言えないのですが、農家の人って昔は「百姓」って呼ばれていましたよね。その意味って百のことができる人って意味なんです。それって英語に訳すとスーパーマンじゃない!って思って。何でもできる人、それこそ農業だけでなくて、家も作れちゃうし、山の整備、狩猟もできる。私はそれを目指しているのかも知れません。食べること、すなわち生きること、衣食住すべてが直結しているので。生きる基盤、土台の部分にあたる。それがないと私たちって何もできないんですよね。もちろん歌うこともできませんよね。それが半農の部分なんです。そのベースを持つことによって歌手、歌うことが成り立っているんじゃないかなって思うんです。分母みたいなものが半農で、分子が半歌手みたいな。ベースがあって歌手業があるって感じだと思います。生きるのにどちらもすごい大事なんです。食べることと同じように歌いたいって思っています。

なるほど。確かにそうですね。多くの人は半農ではない。土台があるわけではない人がほとんどですね。ヤエさんの場合は土台も持ち、それがあるから歌も歌えるという生き方なんですね。

Yae:その方が安心して暮らせるって思うんです。あと楽しいんです。もちろん大変なんですけれど、いっぱいやらないといけないことがあるので。でも楽しい人生が送れているなっていう充実感はすごくあります。

東京で生まれ育ったYaeさんはどうしてここに越してきたのですか?

Yae:この「鴨川自然王国」があったのが大きいですね。私が小学生の時、父親に「おまえ、田舎が欲しいか?」って聞かれたんです。急に言われて、「欲しい!」って答えました。そしたらここにつれて来てくれたんですよ。そのときはまだこの土地に家も建っていなくて。お隣さんのおじいちゃんがまだ元気だったときで、そのおじいちゃんの家に泊まらせてもらっていました。当時は楽しくてこの山を走りまわっていましたよ。そのときはまだこの土地すら買ってもいませんでした。たぶん信頼してもらって借りていたんだと思います。酒を持ってまわりの集落をまわっていたみたいなんですよね。みんなと仲良くなって信頼関係を得るために。そしてこの隣の場所に最初の自然王国を作ったんです。そのときは鶏を三千羽くらい飼っていました。蜜柑畑の下に。夏休みになるとその間はずっとその鶏の世話をしていました。そのときから地元の子どもたちとも仲良く遊んでいて、自分のふるさとになっているんだなって実感していましたね。父は有機農業を推進するために全国で講演会をしたり、いろいろやっていたんですけれど。じゃあ有機農業って何?って事を実践していかないといけないと思って、それを体験するフィールドとしてここに「自然王国」を作ったんです。田んぼと畑を作って。畑は大豆を中心に栽培しました。それもまたトラスト運動だったんですよね。都市と農村をつなぐための場所として。その当時はまだ今ほど農園体験ということができる場所が少なかったんです。それを始めて当時からすごく人気があったみたいです。80年代前半の話です。都市から農村にメインが来るべきなんだっていう構想をすごく掲げていました。当時の私はよくわかっていなかったんですが、この時代になっていまそれがこういうことなんだな、って時代が追いついてきた感じがありますよね。

それは東京で生まれだったYaeさんだから気がついたことだったのでしょうか?お父さまはこの場所をどのようにしたかったんでしょうか?

Yae:そうですね、「自然王国」って名前を付けていたので、食料、エネルギー、教育、医療のすべてがこの場所でまかなえる、というのが構想だったんです。土台があってすべてが繋がっているという考えでした。私も都会に暮らしていて、このままでいいのかな?という漠然とした不安がありました。お金を出して食べ物を食べて生きているけれど、もし震災などが起きたりしたらどうなるのかなと。ここは水も食べ物もあるので。シェルターになる場所なんです。当時、父はなにも話してくれませんでしたね。本当に会話のない親子でしたから(笑)。生まれ育った東京の家は庭もベランダもないマンションの7階でした。ここには蛇もいるしいろいろな虫もいっぱいいます。

Yaeさんはどんなきっかけで歌手になったのですか?

Yae:高校生の時に何もやっていなくて、何をしたらいいのかわからない。そんなときに母親がヒマなら踊りでやってみたら?って言ったんです。それからモダンバレーの教室に通い始めて。創作的な舞台をやらせてもらえるようになりました。舞台が面白くなった時に音楽劇に出演しないか?って誘われたんです。しかもキャバレー歌手の役でした。それまで歌ったことすらなかったのに。母親がその劇の音楽監督だったんです。「Yae、歌いなさい」って言われて(笑)。怒られながら練習しましたよ。そもそもキャバレーって何ですか?というところから始めました。その劇はホロコーストのコルチャック先生というお芝居で、ポーランドのユダヤ人が迫害されていくストーリーでした。その舞台となったポーランドの場所を母と2人で観に行きました。19歳の私にはとても刺激的な場所でした。それからワールドミュージックや民族音楽などにどんどん興味を持つようになりました。自分の曲にも大きく影響しています。

ご自分で作詞作曲されていますね。

Yae:レコード会社に所属して、思いどおりにいかないこともありましたけど、結局いろいろとやらせてもらうことができたんです。自分の曲もたくさん作ることができてとても感謝しています。人前で歌うことがどういうことなのか、改めてわかりました。私って何だろう?ってずっと探していたじきでもあったので、そういう曲がたくさん生まれましたね。私の作詞やメロディーには自然の風景がたくさん出てくるのですが、それは小さい時ここでの体験の記憶が影響していると思います。でもレコード会社に所属していたその頃はとにかく都会が楽しくて、夜な夜なライブに行ったりクラブに行ったり、毎晩音楽三昧でした。完全に夜型生活。不摂生な生活をしていたのでよく体調も崩していました。冷蔵庫には水とビールしか入っていないみたいな生活でしたから(笑)。そして29歳になった時に、はっ!っと気がついたんです。もうすぐ30歳じゃん!って。私、結婚もしたいし、出産もしたいって思ったんです。そして所属していたレコード会社との契約も期間が終わる前に終わりにしたんです。そしたらポカンとスケジュールが空いちゃって。時間があったのでここに久しぶりに遊びに来たんですよね。それまでは仕事も忙しくて年に一度、正月に父に呼ばれて訪れるくらいでしたから。父は2002年に他界したのですが、そうやってふらりと訪れたのはその後のことでした。そしたらここで農業研修をしている男の人がいたんです。田んぼだったところを畑に変える為に田んぼの土手際の部分をずっと掘っていたんです。人が入れるくらいの深さまで掘っていてすごいなって思って。思わず私も手伝いましょうか?って言ったんですよね。なにしろヒマでしたから。それでスコップで土を掘ったり、大豆畑があったのですが、そこの草むしりもしました。間違って大豆まで抜いちゃって。それ大豆だから!って言われたり(笑)。無我夢中で草むしりをして、途中でふと振り返ったら、私の後ろにはきれいになった畑が広がっていたんですよね。これ、私がやったんだ!という達成感がすごかったんです。夏だったのでものすごく汗はかくし、虫に刺されまくって。東京では感じたことのない感覚でした。東京では夜型だった私が、太陽をさんさんと浴びて汗だくになりながら、その時デトックスがおこなわれたんだと思います。それまでの私はいろいろな自分を見せようとしてたくさん着込みすぎていたんですよね。草むしりをしている間に暑くなって、それをどんどん脱いでいったんだと思います。そしてそれを全部脱いだら本当の自分が現れたんです。

この場所を作ったお父さんから教わったのではなく、自分で体験したんですね。

Yae:そうなんです、今までに感じたことがないくらい気持ちが良くて。穴を掘っていた彼も元々東京の人だったんですが、研修生としてここに来ていて、敷地にある山小屋で寝泊まりしながら作業をしていました。その山小屋の前で毎晩たき火をしながら飲んだり話をしたりしていたんです。そのうちいろいろな未来が語れる場所なんだって思えたんです。東京に居たときは5年後10年後の先の未来ってあまり想像しなかったし見えなかった。不安もありました。ここでいろいろな話をしているうちにいいなと思って。それで彼と結婚することになったんです。あの時に穴掘っていた人が旦那なんです。後でいろいろ聞いたら、穴掘りも地元の人がユンボを持っていたのでそれを借りれば早かったのにって(笑)。でもスコップで掘れ、って言われたらしいんですよね。土の匂いとか感触とか汗をかいたり、その大変さも含めてそれも学びの一つだったんですね。私も学んじゃいましたね。東京の方が出会いは多いはずなんですけれどね。でもこういうところで自分が見えたときに、あっこの人だって思えた人と結婚できたのかな?って思いました。しかも私から言ったんですよ。でもね、彼からはちょっと待ってくれ、って言われましたよ(笑)。

おっ!待たされた!

Yae:確かに、加藤登紀子の息子になる度胸があるのか?って考えますよね(笑)。加藤登紀子のことも藤本敏夫のことも知らずにフラッとここに来て土を掘っていたんですから。1年くらいしたらまた他のところへ移ろうか?って思っていたらしいんですが、そこを私がガッっと捕まえた感じです。今では軽トラやトラクターに毎日乗っている地元民になっていますよ。結婚することになってこの山を下ったところにある古民家を借りて住むことになったんです。家も傾いていて、こんなところに住むんだ!って思いました。そしたら大家さんがジャッキを持ってきて、家をジャッキアップし始めたんです。それでいいんだ!って本当に面白かったですね。私は古民家も初めてでしたし、壁を直して囲炉裏を作ったり。楽しかったです。

「自然王国」と呼ばれるこの場所ではいまどんな活動をされているのですか?

Yae:ここで田んぼと畑をやりながらカフェもやっています。それから毎年サポーターの方を募って、その人たちと一緒に大豆畑と田んぼを手植えしたりいろいろな自然体験をしてもらっています。最近では麦も作ったり。大豆が取れたら味噌を作ろうってなって、みんなで味噌作りを始めたり、竹藪があるのでその竹を使って竹炭を作ってみたり。サポーターの人たちがやりたいことを何でも自由にやっています。今はちょうど古民家再生も一緒にやろうと話しているところです。藍染めをやってみたいという人がいたので藍を育ててみたり、和綿を育てようとか。ビールが好きだからホップや大麦も育ててみようってなったり。土地があればできることが無限大に広がるんですよね。ここは地下水も豊富にあるんです。水をたくさん吸収できる山なので。今はこの山の整備をしたいって考えています。「土中環境」という本を書かれている造園家の高田宏臣さんという方がいて、その方がここにも来てくれたんです。造園家の方なので土から上に生えた物に目がいきがちですが、彼は土の下を想像するんです。植物や木々がどう根を張り巡らせているのか?って。その根が深ければ土を固めて安定させるので地崩れを起こしにくくなるんです。山が水をたくさん吸収できるようにすれば、水害が減るだろうということなので山の整備もサポーターの方たちとやろうって話しているところです。

話を聞いていると「半農半歌手」以外にもいろいろな活動をされていますね、まさに「百姓」。普段はどのような生活をしていますか?

Yae:ここに来て17年経ちますから、いろいろとやりたいことが増えました。普段の生活では子どもがいるので毎朝学校へ車で送っています。学校の前に「南の里」という直売所があるんです。うちも煎餅を卸しているので、その様子をチェックします。それから近くの豆腐屋で肥料に使うおからをもらいに行きます。それで山に戻ってきたら周りに仕掛けてある罠を見回るんです。いま狩猟もやっているんです。イノシシ、鹿、キョン、アナグマ、アライグマがかかります。私、市の有害駆除員でもあるんです。ちゃんと資格も取りました。この前も80キロのイノシシが捕れましたよ。4人くらいの男性には運んでもらって、自宅の脇にぶら下げて数日間血抜きをして裁いて食べました。もう冷蔵庫が一杯になるくらい肉が取れました。話を戻すと、その後は肥料を作ったり農作業をしたり、草むしりをしたりですね。今は植え付けの時期なのでそれをしたり大根の間引きをしたりといった管理作業です。

なんだか充実した日々を過ごしていらっしゃいますね。最近ではコロナになって仕事もなくなり大変な人が多かったと思います。必要なこと、無駄だったことがハッキリ見えるようになった時期でもありました。

Yae:そうですね。コロナになってみなさん大変だったと思います。でも私はまったく不安ではなかったんですよね。もちろん仕事もないしコンサートもすべてキャンセルになりました。しかも2020年がデビュー20周年の年だったんです。アルバムも出す予定でした。キャンペーンもできなかったんですがまったく不安ではなかったんですよね。ずっと農作業をしていました。それからここに来たいという方も増えたんです。さらにそういう場所を作らないとと思っていて。この辺りの集落でも空き家がどんどん増えてきているので、それを修繕して再利用できるようなことも考えています。

まさに百姓!

Yae:そう、私百姓を目指しています。そのときそのとき必要なことを自分たちで工夫してやるってこと。移住者の人たちもそうなんですが、地元の人たちの目線や想い、この土地に対する愛とか、そういうのもすごく大切なのでそれぞれをつなぐ役割もしたいんです。ウチの旦那は祭りに参加したり、消防団や青年会とかにも入って、地元密着です。若い人がいないから頼られるんですよね。集落も農業をつなぐ人がいないので。ここは限界集落ですから。バリバリの現役っていう人たちが70代って感じ。

そうなんですね、じゃあYaeさんご夫婦はヤングって感じですね。

Yae:私たちなんてヤングですよ。若い人たちが増えて欲しいって思っています。サポーターの人でここがきっかけでこっちに引っ越して来た人も数人いるんです。今やっていることが持続可能性の為にやっていることですからね。目先ではない、何十年後というそれくらい先のビジョンを考えています。古民家の再生でも、茅葺きの屋根を再生したくて。少し前にこの集落で大きな茅葺き屋根の家を買ったんです。300年位前に建てられた古民家なんです。不動産価値としたら0円以下ですね。でも文化的な価値でみたらすごいと思います。高度な技術を使って建てられていると思います。それこそ百姓が集まって。それは残さないと、つながないといけないなって思うんです。

Yaeさんのお子さんたちはここでの生活をどう思っていますか?

Yae:東京には住みたくないらしいです。でもこの山を下ったコンビニがある近くに住みたいみたいです(笑)。学校も近いしコンビニもあるし。ここでは虫を嫌がるんですよね。私は東京であまり虫を見たことがなかったのでいまだに興味津々なんですが。蜂、ムカデ、ゲジゲジ。よく“アシダカグモ”が家に入ってくるんですが、主食がゴキブリなんですよ。私ゴキブリは嫌いなのでアシダカグモは「飼っている」という気持ちで見守っているんです(笑)。ゲジゲジもかわいいですよ。なんでそんなに足があるの?って突っ込んでみたり。彼らも理由があってその形でいるわけですし、ここで精一杯生存競争を勝ち残って生きている。イノシシも農作物を荒らすのでみんなから嫌がられていますが、うまく棲み分けができたらいいなと思っています。山に餌があればこっちにはこないので山を整備することが大切だと思うんです。

今の生活は理想的ですか?これからやりたいことはありますか?

Yae:理想的だと思います。あとこの場所で幼稚園をやりたいなって思っています。森の幼稚園。自主保育はやっているんです。子どもがたくさん来て、みんなでブランコを作って遊んだり。竹を割って流しそうめんをしたり。みんな全身を使って楽しんでいます。そうめん以外にトマトやブドウとか好きな物を自由に流していましたよ(笑)。そんな姿を見る度に幼稚園をやりたいなって思っています。いま、学校に行けない子、行きたくない子どもも多いので。そんな子たちがのびのびと遊べるところが必要だなって。教えるのではなくて、体験してもらいたいんです。私がここで草むしりをして体験して感じたことを子どもたちにも感じてもらえたら嬉しいですね。

Yae

Yae
(半農半歌手)

東京生まれ。故藤本敏夫・歌手加藤登紀子の次女。
2001年ポニーキャニオンからアルバムCD「new Aeon」でデビュー。
存在感あふれる「声」で各地にファンの和を広げ、NHKみんなのうたや人気ゲームソフト、ウォルトディズニー生誕110周年記念作品ディズニー映画「くまのプーさん」の主題歌を歌唱。現在は、三児の母となり、家族とともに自然豊かな里山「鴨川自然王国」で、農を取り入れたスローライフを送り、ラジオのパーソナリティも務めながら全国でライブ活動を行っている。